ナタリー・ゴールドバーグ「クリエイティブ・ライティング」の思い出

 いま、ググってみたら、クリエイティブ・ライティングっていろんなものがあるらしい。
 クリエイティブ。
 と、ライティング。
 っていうありふれた言葉だ。
 そりゃいろいろあるだろう。ここではナタリー・ゴールドバーグが提唱した、文章修行であるところのクリエイティブ・ライティングについて書きたい。


スポンサード リンク

 おれが、まだ 20 代の若猿だったころですよ。山猿だったおれは小説家をめざして、ウホウホとゴリラみたいな顔して都会にやってきたわけ。
 だいたいバイトしかしてなかったけどな。
 とにかく、吉祥寺のさ、サブカル異星人みたいなのが集う本屋でさ、ナタリー・ゴールドバーグの「クリエイティブ・ライティング <自己発見>の文章術」という本を買ったのよ。うっきー、なんつって。
 すげーいい本で、おれはたちまち感化された。
 
 解釈はいろいろあるんだろうけど、おれがあの本から受け取ったメッセージは、
「山猿よ、執筆を通しておのれ自身を知るのじゃ」
 みたいなさ、霞がかった話なんだよね。
 著者は日本の禅なども実践しているようで、哲学的・宗教的っいうかな。なんか深い話をしてるわけ。
 なにより、著者の優しい感じ? つつみこむような大きさ?
 みずみずしい、染みとおるようないい文章で、文章修行のついてのエッセイだよね、ノウハウというよりはエッセイを書きつらねているわけ。
 スマートな吉祥寺のサブカルどもに、「まぁ、猿がいるわ」などとクスクス笑われて、傷ついていたおれである。ナタリーに導かれるまま、彼女のいう文章修行にうちこみはじめたのはやむを得ないことなのであった。
 
 といっても、ナタリー師のいう修行というのは「書け。いいから書け」という、それだけなんである。「書け。気絶するまで書きつづけろ。血反吐を吐け。ペンを止めるな、書け、書け、書け」
 師父。なにを書けというのです?
「いいから。今、感じてることでいいよ」
 なんもないっす。無っす。
「じゃあ思い出でいいよ。なんでもいいよ。ヤカンについてでもいいよ」
 師父の教えでは、そうやって手を動かすために書くかのような文章修行においては、論理的になってはいけない、というのである。
 考えるな、感じろ。
 感じるままに文章を書け。
 これほど難しいことはない。二十代の若猿である。男の子にそんなこといったら「うんこ」「おっぱい」「おちんちん」しか書けなくなってしまう。
「恥ずかしいことでもいいから書け。わたしなんぞ、キティちゃんのノートに、シェーファーの安物万年筆で、そりゃあ恥ずかしいことを書いたものさ」
 などとあるので、あこがれて、武蔵境の北口の文房具屋(吉祥寺がどうのこうのいっていたが、おれが住んでいたのは武蔵境だった)で、安物のシェーファーの万年筆を買ってきて書いたりした。
「おまえ、恐いんだろ」師父はいう。「わたしだって今でも、文章を書くのは恐い。でも恐いことをこそ、書きなさい。トラウマにはエネルギーが眠っているから」
「師父ー!」
 ってなことを、二、三年はつづけていたと思う。
 大学ノートは、ダンボールふた箱分くらいにはなった。のちにそのノートを、実家ですべて燃やすことになる。そのさい、運ぶのに一輪車つかったからね。
 
 それで文章力は向上したのか。
「いや、いままさに、お前の文章を読んでいるところなんだが……」
 みたいなことを思っている方もいらっしゃるところだろう。
 おれ自身、そんなには文章力が上がったとは思えない。修行の仕方がまずかったのだろう。
 
 ただね。
 文章を書き始めるのにあたって、そんなに身構えなくなった。歴史上はじまって以来の糞文章で作品を書く、ということに慣れたんだと思う。
 世界最低の文章で小説を書くという項でも書いたように、意外にこれは使える武器なんですよ。第一稿で糞な文章だと、第二稿で時間がかかるんだけど、とにかく仕上げまではいけるようになる。
 というわけで、ナタリー・ゴールドバーグのクリエイティブ・ライティングを万人にすすめるか、というとそうでもない。
 しかし、どうしても筆が止まっちゃう、というひとは一度くらい試してみるといいかもしれないですよ。

スポンサードリンク