小説が、みるみる書けるようになる方法【意識低い系・小説の書き方】

 煽りくさいタイトルですまん。
 あと、偉そうにしてるけど単なる素人ですまん。
 おれはある日突然、小説が書けるようになったんです。あくまでおれの場合だから参考になるかどうかわからない。
 けど、これをやらずして小説を書くのは不可能なのではないか、と愚考する次第なんです。


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 その方法というのは、ひたすら小説を読むこと。
「たりめーだろ。殺すぞ」
 などといきり立つ前に聞いていただきたい。
 ある年の冬、だいたい 50 冊くらい立て続けに小説を読みまくったところ、
 ——これ、書けるな。
 という実感を、おれは天啓のように得たのである。
 ためしてみると、書けるようになっていた。傑作じゃなかったけど、書けるようにはなったのだ。

 おれは平均を下回る高校の出身である。高校時代、友達はおらず、休み時間を、本を読むことでやりすごしていた。だから、すくなくともクラスメートよりはたくさん本を読んでいたと思う。
 ひと付きあいが苦手だし、国語の時間に褒められることが多かったので、将来は作家になりたいと考えるようになった。
 なんどかノートを広げて、書き始めようとした。
 しかし、どうしても書けなかった。アイディアはある。ストーリーも頭のなかに出来てる。文章だって、学校の作文とかならスラスラ書ける。
 小説だけはどうしても書けないのだった。

 それが、高校を卒業して数年たった、ある年の冬。
 コタツのなかでふやけそうになりながら、一日に 2 冊、とか 3 冊とか狂乱したように小説を読みまくっていたら、きゅうに書けるようになった。
 これはようするに、インプットがある段階に達したのだ。
 当時はそう考えた。
 具体的な数字はわからないが、例えば 500 冊とか 1,000 冊とか読むと、チーンと音がしてアウトプットできるようになる。中学、高校と本を読みつづけて、読書量がその定数に達したのだろう。読書量がある水準をこえると、なんか頭のなかのスイッチが入るのだろう。そんな想像をしていた。

 今から考えると、それだけじゃない気がする。
 おれがその冬ひたすら読んでいたのは、山田風太郎と、司馬遼太郎だった。
 この「同じ作家の作品をひたすら読む、集中して読む」というのが良かったのではないか。秘訣なのではないか。
 山風と司馬遼である。
 癖のある作家だ。作品の空気や、文章、なにより話の運び方。ああ、山風だな、司馬遼だな、という独特の味がある。どの作品にも作家の個性があって、共通するパターンみたいなものがある。そのパターンを覚えたにすぎなかったのではないか。
 ひとことでいえば、リズムだ。
 ここで、こうきて、こうなって、ここでクライマックス、ドン。
 みたいな。こいつの小説、いつもこれだな、というリズム。
 その、おなじみのリズムが体に入ったのである。
 小説全体のリズムであり、ストーリーのリズム、文体のリズムでもある。そのリズムを還元すれば、脚本家のボグラーが著した「神話の法則」みたいなリストにできるのだろう。
 けど、読書を通して体に入ったリズムは、そういうリストよりずっと実用的な気がする。
 そこには「あー、この程度のエピソードの重ねで、次へ展開してもいいんだ」みたいな、手抜きというか省略のしかた、まで刻まれている。リズムとしかいいようがないものなんである。

 まとめると、「あこがれの作家の作品を集中して読みまくり、リズムを身につけると、真似ができるようになる」
 という感じだ。
 替え歌、みたいなもんだ。音楽だけ覚えてパクって、歌詞は自分のをくっつけて、自分の作品にしてしまおう、という。そういう意識低い系小説作法なんである。
 リズムがわかると、小説というものの形態がちょっとわかるようになる。するといろんな作品が書けるようになって、楽しくなってくる。
 小説を書きたいけど手がつけられない、というひとは試してみるのもいいかもしれません。保証はできないけど。

 これだけだと具体性がないので、稿をあらためて、もうちょっと続けます。

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