カレイの煮付けで思い出したこと

 きょうの夕食がカレイの煮付けだった。
 好物だとおっしゃる方や、漁師の方にはもうしわけない、おれは子供のころ、あんまり好きじゃなかった。
 まず、食べづらいんだよな。骨が多いし、その骨が硬いしよ。白身の味も別段これといって、うまいとも思わなかった。
 だから今夜も、ああ、カレイだなぁ。カレイきちゃったなぁ、と思いながら食べはじめたわけ。
 そしたら別に、それほどマズくもねぇのな。骨だってむしろ取りやすいわ。子供のころの印象なんてアレだな。ぜんぜんだな。子供に判断まかせちゃ駄目だな。
 骨から白身を離して、ごはんといっしょにハフハフ喰ってたら、ふと思い出すことがあった。子供のころの記憶がよみがえってきた。マルセル・プルーストの再来かと思ったよ。


スポンサード リンク

 なにかっていうと、遠慮を知らない子供時代、食事にカレイの煮付けが出た時のことなのである。母親に訊ねたのだ。
 なぜですか、母上、と。
 そんな風にはいわなかったけど、「なぜ、かように食べづらい、それでいて、さほどうまくない、このような庶民の魚を食事に出すのですか」というようなことを訊ねずにいられなかった。要するに、要約してひと言でいうなら、「カレイなど、サカナくんにでも投げて与えておけばよいではありませんか。よいではギョざりませんか」ということだったんである。
 でもほら、母親ってさ。
「は? 別にうまいし」とか、
「だったら骨ごと食えよ」
 とかいうじゃん。
 そんな返事を待っていると、母親は神妙な顔つきになって、
「お母さんもカレイは、それほどおいしいとは思わない」
 などと、のたまったのである。

 ではなぜ、それを買うのか。調理するのか。誰かからもらって、やむを得なかったということか。
 取調室の刑事のように質問をかぶせていくと、 母は重い口をひらいた。
「おじいちゃんがね」というのだ。
 うちの祖父、母から見れば舅にあたる老人が、かつて母に命じたのである。
「食卓には、なるべく、めずらしいものを出してくれや」
 母はそのいいつけを、祖父の死後もまもってきたのだという。
 いや、カレイってめずらしいか?
 という問題はあろう。しかし、おれの田舎は山のなかなので、どちらかといえば海の魚はめずらしい部類だったのかもしれない。とくにカレイなんか、なんだそりゃって食材だったのだろう。
 そう、めずらしいから食事に出したのである。たとえば栄養のバランスとか関係ない、うまいとか、マズいとかどうでもいい。めずらしいかどうか、だったのである。

 この、珍奇・面白を、最重要ととらえる珍奇面白至上主義を、おれは子供ながらに気にいった。当時はその考えかたが、ラジカルにつっ走っているように思えた。
 まず、めずらしいかどうか。
 うまい、まずい、という情報は、めずらしいという価値の下に付属する。
「すげーめずらしいもん喰った」
 そこからはじまるのである。
「味はあまりよくなかった」だの、「ものすごくうまかった」だの、「高かった」「安かった」という話はその後にくる。
 田舎者、ということだろう。
 見たことのないものを至上としてしまう、田舎者の感性といえる。
 食事にまつわる粋だとか洗練だとか、もてなしの心とか関係ない。ここらあたりじゃなかなか見かけない、というものを求めてしまう田舎者のサガだった。
 見て驚き、食べて二度驚く。という知見の拡張をおれは食卓でおこなっていたのだ。われわれ田舎者が食べていたのは魚じゃない、その意味だ。珍奇・面白こそが美味だった。めずらしさを食べ、おもしろさを栄養にして、おれは大きくなったのである。

 というのはいいすぎで、ふつうの炭水化物やたんぱく質で育ったのだが、それはともかく。
 なにをもって、めずらしいもの、おもしろいもの、と判断するかというと、意外に都会で流行ってるかどうか、だったりしたな、うちの場合は。カレイはともかく。
 なんだそれ、って話でもうしわけギョざいません。

スポンサードリンク